場外

para la calle

日直日誌の返事

教育実習の配属先は高校1年生のクラスだった。
何駅か先のファッションビルに行き、オフィスカジュアルを取り揃えた入りやすいお店で「女子高生40人の前に出てはずかしくない服を2週間着まわせるよう見繕ってください」と頼んだ。店員さんが嬉々として選んでくれたのは、普段も使えます、というズボンを黒とオリーブグリーンの色違いで計2本、白地にグレーとピンクのピンストライプの入ったシュッとしたシャツ、襟ぐりにパールビーズのついた黒のサマーニット、濃いめのピンクに焦茶色の変則ボーダーというアポロチョコみたいな色合いのサマーニットという組み合わせだった。どれも自分では選べないだろう。すばらしい、ありがとう、ほんま助かりましたと礼を言う私を、店員さんは、がんばってくださいね、先生、と見送ってくれた。

久々の母校はあいかわらず美しく、生徒たちはとてもかわいく、いつも10時間寝ている人間にとっては授業の準備で大体2時間ずつしか寝られない毎日は地獄のように体がつらく、実習5日目の金曜日の朝には寝不足がたたって朝食が喉を通らなくなり、はじめての経験に「ごはんが喉を通らないってこういうことなのか」と他人事のように感動した。お茶でごはんをなんとか流し込み、這うように学校に行き、実習生同士励まし合い、ほうほうのていで1週目を終え、何とか土日で帳尻を合わせて2週目、放課後に実習生控室で日直日誌の返事を書いていた。
日直の生徒が日誌に書くのはその日の時間割と、朝の礼拝の内容、その感想、その日あったことなどである。そのほかに書きたいことがあれば適当に何か書いてもよい。そんなに堅苦しい日誌ではないのは私の在校中から同じだった。自分が生徒やったときって何書いてたっけな、と考えて、ら抜き言葉に厳しい担任の先生に受け持ってもらっていた高校3年生のとき、
「先生、私たちの使っているのは、方言です。ら抜き言葉ではありません」
と書いたことを思い出した。先生は私の書いた作文を褒めてくれた唯一の大人だったし、私が家庭の事情で大学には進学しないと言ったときには「どうしてそんな大事なことをすぐに相談しないんですか」と泣いて叱ってくれた。そんな大恩人に向かってよくもまああんな生意気なことを書いたものだ。先生はあれ以降口語のら抜き言葉についてはあまりうるさく言わなくなった。
その日私が終礼で受け取った日直日誌には、カラフルなビー玉みたいにころころとしたかわいい文字でこう書いてあった。
「演劇部です。今度の公演で、付けヒゲのちょっと変なおっさんの役をやることになりました。がんばります」
書いた生徒のつるっとかわいらしい顔を思い浮かべ、変なおっさんか…、おいしいな、それは、とまず思った。当時の私はオールザッツ漫才を毎年楽しみにしているようなお笑い好きだったので、まず抱いた感想がそれだった。女子校でどうして付けヒゲまでしておっさんの出てくる演劇をやるんだ、と思わないでもなかったが、でもおいしい役には違いない。問題は、この日誌に「先生」としてどうコメントをするかだった。
大阪の子になら、「おいしい」は多分、書けばニュアンスは伝わると思う。ただそれは「先生」の使う言葉として適切か、という迷いがあった。お笑い好きのスラングじゃないのか。通じるからといって使ってもいいものか。あと「おっさん」はどうなんだ。正すべきなのか。でもなあ。何を書くかは実習生に一任されている。忙しい指導教官に相談するほどではない。しばらく考えたが答えが出ない。とりあえず、帰って考えよう。日誌を閉じて、教材のカゴに入れ、学校をあとにした。帰りの電車、晩ごはんの最中、風呂で頭を洗っているとき、寝る前と考えつづけて、翌朝、学校へ行って日直日誌を開き、結局、こう書いた。
「変なおっさんとはおいしいですね。がんばってください」
そういえば、私がら抜き言葉のことを書いたとき、先生はなんと返事をくれたのだろう。日直日誌は次の日の日直に返すので、もしかしたら私は返事を読まなかったのかもしれない。そうか、しまったな。先生、なんて返してくれたんやろ。そして演劇部の彼女はこの返事を読むのだろうか。日誌を次の日直に返して朝礼を終え、出席簿や筆記具をまとめていると、演劇部の彼女が教卓まで駆けてきて、ぴかぴかの笑顔でこう言った。
「先生、先生!そうやねん、おいしいねん!がんばるね!」
うわ、と思った。言葉がまともに伝わった。朝礼が終わってすぐ日誌を見せてもらうほど、たかが実習生の返事を楽しみにしていてくれたのだ。そして多分、私の返事が、たまたま、彼女のほしかった言葉だったのだろう。書いたあと、思ったよりそっけない感じになってしまったな、と思った言葉で、こんなにぴかぴかの笑顔を見せてくれると思わなかったので、動揺を押し殺しながら、なんでもないふうに「うん、がんばってね」と返した。

実習終盤にすこし時間に余裕ができ、実習生同士で連れ立って、在校中にお世話になった担任の先生へのあいさつ回りをした。ら抜き言葉に厳しかった先生は、めんどうくさいことばかり言っていた元生徒に、「あなたのように言葉に敏感な人が国語の先生をやるのはとてもいいと思いますよ」と言った。言い方がどことなくひょうひょうとそっけないのがあいかわらず先生らしかった。
先生ならあの日誌になんて返事を書いたか覚えている気がした。あのときなんて返してくれはったんですかとは結局聞かなかった。内容がなんであれ、いろいろ考えて書いてくれたのには違いないという確信があった。