場外

para la calle

私もチキンを買おうと思う/映画「成功したオタク」感想

鑑賞にいたるいきさつ

私は2022年の2月頃に現SMILE-UP.社のWEST.(※当時は旧名称)というアイドルグループの楽曲をラジオで聞いて、曲がいいと思ったので、それから半年ほどかけて彼らの曲を全曲聞いた。
もともとアイドル全般に興味も縁もなかったし、彼らに関しても、存在も知らなかったし、曲から入ったこともあり、アイドルとしての彼らに良さを見出したという感じではなかった。もう少し率直に言えば、曲がいい、ついでに顔がいい、好意的に見ればおもしろい、というような感じで受け止めていた。正直なところ、アイドルビジネス、例えば「ファンに感謝」と言いながらほとんど同じ内容のCDを3、4パターンも出してファンから金を巻き上げる商法などについては私はそれ以前から現在にいたるまで一貫して否定的だし、そういう周辺事情がわずらわしいので、アイドルじゃなくてただシンプルに音楽を売るボーカルグループであってほしかったなあ〜、と思っていた。

ただそもそもアイドルに興味がなかったからこそ、その楽曲を新鮮に感じた、という面はあった。
当該事務所の元社長の行状(*1)やアイドルビジネスにまつわる諸問題について思うところがないではなかったものの、深く考えてはいなかった。もし深く考えてたら、2022年時点の認識だけでも踏みとどまっただろうな。踏みとどまるという表現が適切かはわからんけど。

さて、私が彼らの曲を全曲聞き終えた2022年秋頃から元社長の性加害についての告発が相次いで話題になり、あるいはそれに関連して、または関連なく、当該事務所がのべつ各方面へ圧力をかけていたことなどが具体例をもって報じられだした。私は私が考えていたよりもさらに遥かに現在進行形で問題のあるプロダクションであることを知った。
彼らはグループ名称が名称なだけに今後それなりに近い将来に解散するなり、あるいはプロダクションを移籍して過去曲の実演権を放棄するなりすることになるのだろう、彼らの既発曲が実演されるのを見る機会があるとしたら今が最後だろう、と私は考えた。これが2023年1月である。そしてチケットを取り、5月に一度コンサートを見に行った。
コンサートのチケットの一般発売はほぼ空売りだとのことだったので、煩悶の末にファンクラブに入会してのことだった。CDを散々買っておいて何を今さら煩悶するのか?当該事務所に直接金の入るファンクラブ会員費と、各制作者やサプライヤーに分配されるCD売上は、当時の私の中では少しだけハードルの高さが違った。これは詭弁であり実際には何の違いもない。
彼らのパフォーマンスを見てみたかったのも事実だけど、プロダクションの没落が目に見えている以上、当該事務所のビジネスモデルの具現としての彼らと、彼らを通して、これは何と言うのかな、いわば沈みゆく船を見てみたいという下賤な気持ちもあった。

これは余談になるけども、そのコンサートのトークコーナーで、まだメンバーが笑顔で元社長の思い出話をしているのを見て、ああ、当事者にはこんなにも実感がないのだなと感じた。これは防衛規制かもしれない、つまり心理的に「僕らは被害者じゃないですよ」「今の世間の流れは痛手じゃないですよ」「ファンの皆さんはなんも心配しなくていいですよ」というアピールをしたいという機序だったかもしれないので、あまり悪し様には言いたくないが、ファンが2023年5月の時点で元社長の思い出話を喜ぶと、彼らが思っていたのであれば、認知が歪んでいるのだなという感想を持った。
それは彼らのせいではないのかもしれないけど、彼らのせいではないならないで、私はそれを「痛ましい」と思った。

「成功したオタク」で扱われている事件・事象と異なるのは、彼ら自身が性加害行為を行ったわけではないことと、私が彼らを《推し活》のように「推し」ていたわけではないことである。
X軸もY軸も中途半端な立場ながら、把握レベルが事実よりも遥かに矮小だったとはいえ問題があること自体は承知の上で私も当該事務所に金を出した以上は加害の一端を担っていたのだということと向き合うことも言語化することもしんどく、まったくクソみたいな気分でこの1年ほどずっとモヤモヤしていたところ、「成功したオタク」を知り、何かヒントになれば、という思いを持った。
これが私にとってのこの映画の鑑賞にいたるいきさつである。

今さら「別にアイドルとして推していたわけではありません」というのも、自己欺瞞がまったくないとも言い切れず、言い切れずというか全然私は言い切れるけどそんなん嘘やと言われたら証明する方法もないし、逃げを打つのもいやなので、私自身の葛藤は措いて、私の立場のほうに関しては「私は彼らを『推し』ていた」と定義する。なので私は「推し活をしていた人間」としてこの映画を見たつもりでいる。
当該事務所の所属タレントが、少なくとも、元社長の性加害や圧力とそれを可能にした、または自発的に行った組織構造の受益者であったことは事実だと今の私は考えている。そして、当該事務所に所属し続けることを選んだタレントに対して、シンプルに、わからないし、「推せない」、という気持ちだ。これが前提である。

いきさつが長いね。


感想

もう「推せない」人たち

「推しの性加害」について語る覚悟のある人にインタビューをしているから、出てくる人はみんな雄弁だ。「死んでほしい」「二度と出てこないでほしい、お金ならもうたくさんあるでしょ」「元通りにはならない」「苦しさを抱えてまで好きでいられない」「もう誰のファンにもならない」「3000ウォン(*2)あったらチキンを1羽買う。アルバムと大体同じ値段でしょ」「酒でも飲まないと話せない」と言いながら、ヨーグルトマッコリをぶちまけながら、言葉を選んで、探して、言いよどみ、それでも自分の気持ちをなんとか言語化しようと試みている《オタク》の姿は凛々しく見えた。彼女らは怒っているし、傷付いているし、傷付いているという事実を受け入れることに躊躇しているし、一部の人は自分たちも加害者であったのではないかと動揺している。そして「〜すべき」と強い言葉で非難すればするほど、なぜか《推し》への愛がまだ残っているように見えた。生傷をほじくり返しながらしゃべってるようなそれぞれの聴取場面には、なんかちょっと涙が出た。シンプルに、若い人たちがこんなことでこんなに物事を掘り下げて考えて自分の気持ちを整理して意見を表明しているのだ、ということに対する頼もしさを感じた。
これらのインタビューを作品としてまとめざるを得ないオ・セヨン監督によるインタールードのモノローグは、それらのインタビューよりも冷静に時間をかけて選ばれた言葉で作られていると思うけども、ただため息で繋いでいるところも多い。答えが出ないということでもあるし、出たとしてもその答えはあくまで監督の個人的な成果物である。監督のため息を度々挟むことで客が考える間隙を作るのがおもしろいなと思った。

それでも「推し続ける」人たち

それでも《推し》を擁護する人の気持ちがわからない、というのがオ・セヨン監督がこの映画を制作した動機のひとつであるとのことで、グッズのお葬式をしながら、思い出をついうっかり語ってしまったり、袋に入れて保管していた《推し》本人がさわったグッズに素手で触れることをためらってしまったりして、「アルバムはいくらでも捨てられるけど思い出は捨てがたい」のに、そんな自分を棚に上げてと言うと言い方が悪いけど、まだファンを続けている人に対して「どうしてファンでいられるのか」と監督は考える。
私も性加害者のファンでいられる心理はわからないな、と思っていた。映画中盤、オ・セヨン監督は、監督の元《推し》についてのスキャンダル報道を為してそのファンから猛烈に攻撃された記者への取材で、「パク・クネ元大統領の支持者と同じ」というヒントを授かり、「パクサモ(パク・クネ元大統領支持者の集まり)」に潜入する。言葉は選ばないとえらいことになるのだろうなという気はするけど、要するに、性加害した人をそれでも「推し続ける」人たちはカルト信仰者や陰謀論者に似ている、と、「推せない」人からは見えるのだ。
私はあの元社長の性加害問題について、当該事務所のファンはどう思っているのだろうと、昨年秋ごろまでに、以前私が彼らについて書いた記事に好意的な反応をくれた人の中からランダムに数十人のSNSを見てまわった。私の書いた辺境の記事に辿りつくのだから相当熱心な、アクティベイテッドなファンであることには違いない。ファンは問題をどう受け止めているのだろうか?
大体は、なんとなく想像したとおりだった。言いたいことがないわけではないですよ私はという物言いたげな雰囲気を匂わせながらもおそらくグッと唇噛んでグループの改称という「新しい門出」を祝っている人もいたし、被害者に寄り添った立場で「補償はもちろんだ」「第三者委員会をきちんと設けるべきだ」と発言している人もいたし、事務所に寄り添った立場で「法を超える必要はない。法的に決着をつけるべきだ」と主張する人もいた。何も言わずキャッキャキャッキャしている人もいた。「推し活」用のアカウントでは何も言わないことにしている人もいると思うのでそれが悪いこととはもちろん思わない。私も何も言わなかったし、誰もかれもがSNSですべての意見を表明すべきなはずがないし、ごはんはダイニングで食べるし、ウンコは便所でするし、その人にとってSNSがそういう場所ではないというだけで、私も「バッカじゃねーの」と思うことがあってもSNSで「バッカじゃねーの」とは言わない、多分言わないと思う、言ってないんじゃないかな、まあちょっとは言ってるかもしれないね。
そして残念なことに、被害者を中傷している人も、中にはいた。ああ、私はこんなやつまで喜ばせるものを書いてしまったのかとがっかりした。私は2023年5月の時点で元社長の思い出話を誰が喜ぶねん、と思ったけれど、当然に喜ぶファンも多いのだろうということを知った。ここにどうしようもない断絶がある。この人たちには、この人たちが聞きたい言葉しか届かないんだろうなという気がした。
だからオ・セヨン監督が「ファンでい続ける人たちのことは気にしないことにした」と結論づけて退却したことに、ものすごく安堵した。
わかろうとしなくてもいいのだと言ってもらえた気がしたのかもしれない。
この映画で取材されているのはバーニング・サン事件関係者の元ファンだけではないようなのだけど、何にせよみんな「降りた」人たちだ。常道であれば、当の事件本人の「それでもファンでい続ける人たち」にも取材するものなのだろうけど、私の個人的な体験としては、被害者を中傷している人を目の当たりにしたときが一番キツかったし、断絶しか感じず、そこにポジティブな学びは何もなかったので、それなりにポップな映画作品として成立させるためには、別界隈の「話が通じない人たち」に仮託したことはドキュメンタリーの表現として許容される手段だったのだろうと思う。

《推し》の罪が「性加害」であること

《推し》の罪が「性加害」であるということも、バーニング・サン事件においてはファンを強く傷付けるファクターなのだろう。ファンにとっては、自分のいる側の性の尊厳を《推し》が直接的に脅かしたということが辛い。主に女性を相手にする商売をしておいて女性を蹂躙するなんて。でも考えてみれば、全員がそうだとは言わないけども、異性から搾取するビジネスモデルを笑顔で貫徹できる時点で、もともと異性を食い物としてしか考えていないという素地を持つタレントも当然いるのだろう。何もおかしくはない、と言うと本気で「みんなを笑顔にしたい⭐︎」的な高邁な理想をもってやっている人に失礼かな、そうですね。
「女性を食い物にした犯罪」「そもそも私たちも食い物にされていた」ということがシームレスに結びつき、「被害者は私たちだった」と認識する。だからなお傷付いている。
バーニング・サン事件が韓国の人々に苛烈な反応を起こさせたのは、2016年頃からの韓国国内のフェミニズム運動の活発化の流れが影響しているそうだ。「成功したオタク」のインタビュイーの中には「擁護している人には、女性として、彼が何をしたのかを考えてほしい」と語る人もいた。日本では、当該事務所の元社長の性加害の被害者は男性のみで、だから当該事務所の女性ファンは他人事のように考えているのかな?自分たちの側の性を脅かしたわけではないから?いずれの国でも男性ファンはどう思っているんだろうな。でも、性別で括って、性加害だからと言って、自分が被害者だったらと想像したら怒れるか怒れないか、みたいな思考実験は不毛だと思う。女性なのだから女性が被害者となった事件に怒るべき、というような考えは、「男性のことは男性が怒れ」という考えに直結するように思う。どちらの性が迫害されたのであっても同じように怒りを持てるか。そして事件に実際の被害者がいるのに無関係の人間が「私たちも(ある意味では)『被害者』だ」と主張するのも乱暴であり、実際の被害者に対してあまりに惨い仕打ちだとも思う。
これが例えば性加害ではなく、詐欺とか窃盗とか殺人とか、そういったことだったらどうだったのだろう。
タレントが、スポーツ選手が、特殊詐欺をやったら。違法薬物をやったら。人を殺したら。
私はプロ野球が好きだから、プロ野球選手が不祥事を起こすことはわりと常に恐れている。言っちゃなんだけど例えばバット引きするボールパーソンに対する態度なんかを見ているだけでも、この選手はちょっと危うそうだなと思うことがないではないからだ。選手が罪を犯したら擁護はしない。バーニング・サン事件では、ファンをやめない人は「彼ははめられただけ」「そそのかされただけ」と主張していることもあるそうだ。野球選手が不祥事を起こしたときに擁護するファンは、陰謀論を唱えるのではなくて不祥事を「そのぐらいどうした」「反省して打ってくれたらそれでええ」程度に浅薄に考えている人が多いような気がする。
私にとってのプロ野球はただの娯楽なので、こいつは人間性がクソやなと思ったらいくら技術がすぐれた選手だろうが応援はしない。人間性がプレーと関係ないと本気で思うなら野球ゲームだけやっていればいい。ただ野球選手は特に人間性を売りにしているわけではないから、「打てばそれでいい」と考える人がいるのもある程度は理解できる。好きか嫌いかでいえば好きな考え方ではないけど。
タレントは自分の人間性を出さずうわべを作り上げてファンの疑似恋愛を煽っているわけで、「成功したオタク」の中でも「好きだったのは(その人の作り上げた)イメージだけ」「見た目がいかにも悪そうだったら(ここまでショックではなかった)」というやるせない独白があるように、そして「ファンあってのアイドルでしょ?」という言葉のとおり、タレント側はイメージを商品として売ったのだから、それが虚偽だったのならやっぱりそれは裏切りだろう。
ただ、勝手に好きになって自ら好んで金を積んで、時間を費やしておいて、自分の望まない姿を見せられたからといって「ファンの金と時間を収奪するシステムが悪い」とだけ一方的には言えない。監督がいくつかのインタビューで答えているような「ファンの側も適切な距離を取らないといけない」「そのためにはエンタメ企業と《推し》とファンが揃って変わらないといけない」という理想論でも、机上の空論に過ぎないという気がした。

過去の思い出まで否定しなくてはいけないか

理解できないものがあったときにそれを今否定するだけならそう難しいことではない。難しいのは過去の自分を否定するべきか、しなくてよいのか、その判断だ。ファンでい続ける人の中には、過去の自分を否定できなくて、《推し》の性加害すら「悪いことではない」「大したことじゃない」「人柄は作品には関係ない」「反省してるなら大丈夫」と正当化することで自分の心を守っている人もいるだろう。自分は裏切られてはいないと考えないと潰れる人もいるのだろう。
グッズのお葬式の場面がよかった。元《推し》を罵りながら、それでも好きだった当時の思い出は捨てられないと考えることは自然なことだと私は感じた。
オ・セヨン監督のお母さんは、性犯罪を起こした後責任も取らずに自殺した俳優のファンだった。そのお母さんが、オ・セヨン監督の《推し》だった歌手について、感謝していると言う。オ・セヨン監督が中学生のころ、お母さんがシフト勤務で家にいない夜に、娘はその歌手の曲を聞きながら寝ていた。その経験をもとに「彼の曲があなたの孤独に寄り添ってくれたから」と、「感謝してる」と話す。二度とその頃と同じ気持ちで曲を聞ける機会は来ないけど、それでも、またはだからこそ、思い出がまだ手放せないうちは手放さないでいいのではないかと私は思った。
過去を否定できるなら否定してもいいし、曲を二度と聞かないと決めてもいいし、全部ゴミとして捨ててもいいし、捨てられないので決断を先送りにしてもいいし、何を許せて何を許せないかは事案や人によってグラデーションがあると思う。それを他人に否定される謂れも別にないと思う。今はまだ捨てられないと思っても、わだかまりという染みが年月を重ねてどんどん濃くなっていって、普通に汚い思い出に変わる日が来るのかもしれない。今後誰のファンにもならないと決めても、思ったとおりにいかないかもしれない。でも今後何がどうなっても、こういった問題に直面して突き詰めて考えたことがこれからの自分を助けるのではないかという気がした。

《推し》に対して何を望むのか

オ・セヨン監督のお母さんが、自殺した俳優に対して「生きて償ってほしかった」「省みるチャンスをくれなかった」というようなことを言っていたことをふまえてか、オ・セヨン監督は、元《推し》に何を望むかについて、「死なないでほしい」と語る。気持ちは、なんか、わかるけど、でもその決着はウェットだなと感じた。もし被害者が「100万回死ぬべき」と思っていたとしても、被害者が加害者の残りの人生を決める権利を持つわけでもないのだし、元ファンとして「死なないでほしい」「生きて反省してほしい」と願う気持ちは、わからないでもない。反省して、真人間になって、というか真人間に戻って、元からおかしな人間なわけではなかったのだと証明してほしい、自分が好きだったころの《推し》はまともな人間だったと思える余地を残してほしいのかなと思った。
だけどそれはファンの独善だと感じた。
一方で「死んでほしい。言い過ぎ?」と語る元ファンもいて、その気持ちもすごくわかる、と思った。きわめてニュートラルに考えれば法的に下された刑罰以上のことは外野が望むべくもなく、死なないでほしいの死んでほしいの言ったところでどうしようもないのだけど。
思えば人に何かを望むこと自体が不遜なんよなあ。私は、でも、作中でも「この映画をタレント本人が見たらどう感じるのだろう」というような感じで少し触れられているように、私が何かを望むとしたら、事件本人に限らず、平和的に活動している人も含め、男女問わず、アイドルビジネス的な芸能活動をしている人らに、この映画を見ての感想を聞きたいと思った。ファンは棒人間ではない、それぞれがそれぞれにいろんな気持ちを抱えているのだということに対してどう思うかを教えてほしいと思った。
それでも「数字が大事だから同じCDを何枚も買ってほしい」と思うならもうそれはそれ、私にはその気持ちはわからない、それで「ファンに感謝」みたいなことを言うのにいたっては、何なん?と思うだけである。


見終わって

映画の尺は85分である。韓国語の情報量の多さもあるのか、85分とは思えないボリュームだった。
年度初めの週頭の夜の上映回だったせいか、100席少しぐらいのシアターで客は10人程度しかおらず、そのほとんど全員が、不織布のマスクをきちんと着用した、慎ましやかな雰囲気の、20〜40代頃の女性の一人客だった。
それぞれの人を捕まえて、あなたは何を「推し」ていたんですか、それを今も「推し」ていますか、どうやって気持ちに折り合いをつけられそうですかと問うてみたくなった。私はこれこれこういう経緯で興味を持って見に来たんですと話したかったし、この作品に出てくる《オタク》のように、語り合うことで自分を許したり許さなかったりしたいと思った。私は自分を加害者だと思う、作中でファンは被害者か加害者かという問いかけがあったけれど私は被害者ではない。バーニング・サン事件は元《推し》がそういう人間だと知っていて「推し」ていたわけではないのだから、知らずに「推し」ていたことは罪ではないのではないか、でも、ファンから金を巻き上げる、ファンも唯々諾々と金を落とし続けるアイドルビジネスの構造に歪みがあるのは自明なので、そういう意味ではやはり《推し活》自体が全くの無辜ではないのかもしれない。私は性加害が行われていたことを、圧力をかけていたことを知っていたのに当該事務所のアイドルを推したことは軽率だったと考えているし、申し訳ないと今は思う。そういう話をしたい。
タレント自身に非はなくても、彼らのパフォーマンスがどれほど優れていても、性加害や圧力の陰で、彼らよりももっと遥かに優れた才能が、人生が、搾取され失われてきたことを思うと、もう何も言葉にならない。彼らがどれほど魅力的でも、彼らがどれだけ努力しても、それらは一切関係ない。これは「成功したオタク」の中で「元通りにはならない」「苦しさを抱えてまで好きでいられない」と語っていた人の気持ちと同じだ。彼ら自身が性加害をしたわけでもないのにどうしてそんな反応を取るのかと、ファンでい続ける人はおかしく思うかもしれないけど、私はもうシンプルに「無理」になった。
娯楽なんて澱を飲み込んでまで楽しむものじゃない。
私はプロ野球が好きで、プロ野球の構造的に、同じようなスキャンダルが起きてファンの責任が問われることは考えにくいけど、もしそうなれば自分が加害に加担していたことは躊躇なく認めるしかないのだと思う。でも、高校野球というアマチュアスポーツをショー化して子供の頑張りを搾取した上に成り立っているスポーツであることも、よくない構造だと思ってはいるけど、思っているだけで何か行動が起こせているわけではない。もうプロ野球だけ見てるだけでもすでにどこかの誰かにとっては加害者なんかな。それはもう、何でもそう。いつか後悔する日が来るのかもしれない。
この映画を見てよかったと思う。何が正しいか、どうあるべきかはわからず、前提条件がそれぞれ違う以上、この映画の結論が、《推し》がいるすべての人に通ずるわけではないけれど、それでもそれぞれが、自分の娯楽が社会正義に反していることさえ自覚して考えて語らうことは、特に社会の役には立たないが、自省のためや自助のためには無駄ではなく、この映画で語られているようなことがいつかまた自分の支えになることがあるかもしれないと思った。
「推し活に金を使うぐらいならチキンを1羽買う」と言った《オタク》に私は共感した。私もチキンを買おうと思う。でもそのチキンだって、何かを搾取して売られてるもんかもしれへんよね。



映画「成功したオタク」
https://alfazbetmovie.com/otaku/
2024年3月30日劇場公開
監督:オ・セヨン
原題:성덕 英題:FANATIC
製作年:2021年
製作国:韓国
配給・宣伝:ALFAZBET

*1:私は、性加害は2000年前後の民事訴訟のあたりで当事者間で解決し、一定程度の再発防止策が当然に取られたものと2000年代前半には認識していた。2022年時点では、その時点で所属しているタレントから元社長を慕うような言動が出るのは、訴訟以降は加害行為をやめていたからだろうと考えていた。これはまったく考えが甘かった

*2:アルバムと大体同じ値段というからには3000ではなく30000ウォンではないかと思うのだが、字幕は「3000ウォン」だったのでここでは3000ウォンと記載する