場外

para la calle

バスターミナルの仙人

兵庫県立美術館に行こうとしていた。
電車で行くと阪神電車の岩屋駅から徒歩8分である。大阪方面から西へ、わざわざ岩屋駅を乗り越して三宮駅まで行き、三宮のバスターミナルからバスに乗り、東へ15分かけて戻って美術館に到着する、というルートをなぜとったのか、理由は覚えていないが、三宮になにかついでの用があったのかもしれない。あるいは、バス圏で生活をしたことがないため、「たまにはバスに乗りたい」というだけでバスルートをとった可能性もある。ともあれ私は三宮のバスターミナルにいた。
三宮のバスターミナルは近隣府県のバスターミナルのなかでもとりわけ大規模だ。大阪府下の繁華街にいくつか分散してあるバスターミナルよりも、一極集中しているぶん三宮のほうが乗り入れる系統も多く、さりとてターミナルとしてまとまってもおらず、点在するそれぞれの乗り場がとにかくいつも混み合っている、という印象がある。多くの乗り場が高架や歩道橋の下にあるので手狭で薄暗くて見通しも悪く、えー、何番のバスに乗ったらええんやったかな…と見まわしていると、なんの前触れもなく、老齢の男性がフッと寄ってきた。
「美術館やろ。29番で待ってえ。すぐ来る」
歯が悪いのか、すこし発音がシャゴシャゴとした男性である。「29」と書いた標示を指差しながら、確実に私に向かってそう言う。面食らいながら、「ハア、どうも…29番ですね…どうも…」とモゴモゴと返して、言われるままに「29」の乗り場に行き、列に並ぶと男性の言うとおり程なくバスが来た。行先表示には確かに「県立美術館」とある。
混乱したままバスに乗り込み、窓から外を見ると、男性はまだ近くに立っていた。
ベレー帽をかぶっているわけでもなければ殊更アナーキーなファッションでもない、いたって普通のシャツとズボンとサンダル、という自分の格好を検め、なんで美術館に行くとわかったのか?とグルグル考えていたが、自分では何のヒントも見つけられなかった。バスにはショッピングモールに行くものもあれば日赤病院に向かうものもある。バスターミナルに面してドラッグストアや喫茶店などの店舗も並んでいる。そもそもバスを探しているかどうかすら、見た目からはわからないのではないか?あのじいさん、なんや?仙人か?
バスが発車するまで外を見ていたが、バスに乗り込むでも列に並ぶでもなくただ立っているその男性が、私以外の人間に話しかけているところは見られなかった。
私がとくに目立って迷っていたのか、よっぽどわかりやすい顔をしていたのか。だとしたって行先まであれほど確信をもって当てられるものなのか。ふしぎな体験だったもので、その後何度か兵庫県立美術館に行くときはわざわざ三宮まで出てバスで行き、帰りは岩屋駅から帰るなどしたけど、男性に遭遇することはそれ以降なかった。


雑記

兵庫県立美術館には、いつ行ってもほとんど人のいない、絨毯敷きで静かな常設展示室があり、小磯良平の代表作のひとつ「斉唱」が展示されています。写真で見るとちょっと怖い絵のようにも見えるのですが、実物はとてもかわいいです。