場外

para la calle

天神祭の夜に

大阪生まれの大阪育ちだが、天神祭には二度しか行ったことがない。
一度目は4歳のころ、家族で出かけた。それきり行かなかったことを思えば、両親にとってもいい思い出ではないのは明らかである。覚えているのは天満橋駅前のあの広い交差点の真ん中で父に肩車されて見た、群衆雪崩一歩手前の人の波の頭の映像だけだ。
二度目は大学を出てすぐ、友達と行ったときで、仕事帰りに東洋陶磁美術館前で落ち合ったものの、そこからもうすでに大混雑で、花火が見えるところまでたどり着くこともできず、ルートをはずれて中之島の東端の河川敷で飲み食いをしてしゃべっただけだった。そのあたりまで来ると人出も少なく、テキ屋が出している長椅子に腰掛け、お祭り価格の缶チューハイを飲み、いか焼きを食べて、ビルの向こうに上がる花火の音を聞きながら、何しに来たんやっけ、と笑い、暑いから普通のお店にご飯を食べに行こう、となって、帰りに乗る電車のことを考えて、北新地まで何とか人波を避けてふらふらと連れ立って歩いた。
財布をなくしたことに気づいたのは、適当な店に入って、そこも結構な混雑で、店員が「何名様ですか」とも聞きに来ないので入り口で「別の店にしようか」と話していたときである。天神祭なんて混み合うんやからと、普段使っている財布からわざわざ薄手のナイロンの簡単な財布に必要な分だけ入れ替えて、ズボンの後ろポケットに入れていた。その財布がない。
テキ屋の長椅子に座ったときに落としたに違いない。大事なカードなどは入れていないとはいえ、落とすかもしれないと準備したうえで本当に落としてしまうとは。申し訳ないが財布を探しに行くのでここで解散しよう、と友達に伝えたところ、友達は、いっしょに戻って探すよ、と言う。ありがたい申し出を受け、もう花火は終わってしまう時間だし、急がないとテキ屋も店じまいしてしまうからと、タクシーを捕まえて中之島の東端まで大急ぎで戻った。当時の勤め先はその時分でもなかなか珍しい、給料が現金支払というしみったれた職場で、当日もらったばかりの給料がまるまる鞄に入っていた。車内で彼氏からの電話を受けた友達が、英語でほがらかに「うん、今それどころちゃうねん。ふふ、何言うてるの。ふざけんとってよ(No kidding!)」などとしゃべっているのを聞きながら、給料封筒から出した万札でタクシー代を支払い、もう人もまばらな河川敷を、店を畳み出しているテキ屋の隙間を縫って、座っていた長椅子まで2人で駆けていき、いか焼きのテキ屋のお兄さんを見つけて「財布落ちてませんでした?」と大声で問いかけると、お兄さんは店じまいの手を止めて、つられたように大声で「名前は?」と返してきた。
勢いのままさらに大きな声でフルネームを名乗り、「臓器提供カードに名前書いてあります」と付け加えると、お兄さんは笑って「はい、もう落としなや」と、エプロンのポケットからナイロンの財布を出して砂を払いながら引き渡してくれた。
平身低頭し、何度もお礼を言い、お兄さんが片付けていた水張りのクーラーボックスのなかの缶チューハイ売れ残り5本をお礼代わりにすべて買い、友達にも頭を下げて、あらためてご飯を食べに行ったはずだが、そこからの記憶はない。二度とズボンの後ろポケットに財布は入れまい、そして天神祭にも行くまい、と思った。天神祭のたびに思い出すのは、あのときの友達の「No kidding!」という楽しげな声である。




(天神祭が近づくと周辺地域の軒や電柱などに麻紐を張って吊るされる紙垂(しで)。2018年頃撮影)