場外

para la calle

ざる蕎麦を頼む子供

昭和の子供だったから、家族と外食をするのは大体いつもファミリー向けレストランだった。現代の小綺麗な「ファミレス」ではない、和洋折衷の大衆食堂のような店である。
うちの近所にあったのは切妻屋根の大きなレストランで、アプローチの植え込みのなかには狛犬のようなそうでもないような石造りの何かの動物の像があり、昭和のロードサイドの飲食店にはよくあった、大きな回転看板が立てられていた。メニューはカレーやハンバーグ、天ぷら定食、黄そばなど、オーソドックスなラインナップだったが、ひとりで一人前を食べられるようになった年齢から10歳ぐらいまで、幼少期の私がいつも頼んでいたのはざる蕎麦だった。お子さまランチを頼むような年代の子供である。
「何食べる?」
「ざる蕎麦」
毎回同じやりとりをしながら、母も「なんで」とは思っていたらしい。そうそう外食するわけではないし、蕎麦だけでは栄養が足りないのは、まあ、家で食べさせているからいいとして、どうしてこの子は毎度毎度ざる蕎麦を頼むのだろう。食べたいならそれでもいいけど、なぜざる蕎麦なのだろう。
家の近所のレストランだけでなく、車で出かけたサービスエリアでも、ごくまれに映画などを見に連れていってくれた難波・千日前のファミリー向け炉端焼き屋でも、昼でも夜でも真冬でも、メニューにざる蕎麦があれば必ず「何食べる?」「ざる蕎麦」で、あるときめったに行かない家族旅行の行先として出石を選んでくれ、当地で蕎麦打ち体験までさせてくれたことがあったが、蕎麦粉の多い蕎麦を私がまったく受け付けず、「さっき行きしに(サービスエリアで)食べたやつのほうがおいしかった」と言い放ったので親はがっかりしたらしい。
なぜ私がざる蕎麦ばかり食べるのか、疑問に思っていたならそのときに聞いてくれてもよさそうなものだが、まあ、好きなんだろう、と考えて理由を聞かなかった母が、私が大人になってからのあるとき、不意に「あんた子供の頃ずっとざる蕎麦ばっかり食べとったね」と言い出した。私も、そういえばそうやった、と思い出し、「食べやすいからね」と返すと、母は驚いた。「食べやすいってどういうこと?おいしいとかと違うの?」。そう、違うのだ。ざる蕎麦は食べやすいのだ。
背丈の足らない子供がテーブルにつくと、丼ものなどは高さがあってどうにも食べづらい。丼を手に持って食べる筋力もまだない。皿で提供されるメニューは、皿に顔が近いので、犬食いのようになってしまうのが嫌だった。猫舌でもあったし、やや偏食でもあった。幕の内弁当のようにおかずが多いものも、たびたび新しい味とコンニチハしなければいけないのが何となく苦痛で、できるだけ、

  • 最初から最後まで同じ味のものを
  • 熱いのも冷めるのも気にすることなく
  • 都度、手(手元の器)にとって

安定的に食べられるメニューが好ましく、その意味でざる蕎麦がもっとも理に適っていて食べやすかったのである。
しかし10歳頃、夜中に膝がきしむほど急激に背が伸び、クラスで身長順に並べばほとんどいちばん後ろ、という体格になり、それに伴って大体どういうメニューもうまく食べて消化できるようになったので、ざる蕎麦を頼むこともなくなった。以降数十年、自発的にざる蕎麦を食べたことはない。食べたくなることもない。蕎麦自体、年に一度年越し蕎麦を食べるか食べないか、というところである。
人の一生には、その食べ物を食べられる回数は決まっていて、その回数を超えると途端に食べられなくなる、という食べ物がある。そんな迷信を、吉野朔実のエッセイで読んだ。よく引き合いに出されるのは牡蠣で、一生に食べられる牡蠣のことを「背負い牡蠣」と呼ぶ、という話で、エッセイのなかで触れられていたのは「背負いケンタッキーフライドチキン」だった。私も「背負いざる蕎麦」をすでに食べ切ったのではないかと思う。
特に好きでもないのに散々食べたざる蕎麦を、いま食べてもおいしく食べられるものか、突然蕎麦アレルギーを発症しやしないか、試してみたい気持ちはあるけれど、今の自分にとってはわざわざ食べるほど魅力のある食べ物でもないので、多分もう食べないような気がする。大体、そもそも私はうどん派なのだ。



黄そば(きーそば)…近畿圏のB級グルメ。中華麺をうどん出汁で食べる、和風ラーメンのようなもの。
出石(いずし)…兵庫県豊岡市にある城下町。蕎麦で有名。
行きし…行きしな(行きがけ)の意味の関西弁。