場外

para la calle

マリーゴールドの形の光 私と視力矯正器具の30年

物心ついたときには目が悪かった。
最初に作った眼鏡からすでに度が強くひずみがきつかったのだろう、眼鏡人生初日、立ち上がった拍子に、じゅうたんにぶちまけてあったレゴブロックを思い切り踏みつけた。見下ろした床が遠く見えて、自分が巨人になったように感じた。テレビで美空ひばりが「川の流れのように」を歌っていた。昭和の終わりがけ、1988年12月のことである。
当時はプラスチックレンズの眼鏡は普及していなかったので、ズルズルずり落ちる重たいガラスレンズの眼鏡を掛けていた。数年経ち、誠実な眼鏡屋さんに「その度数で眼鏡を作るのは重量的に限界」と言われ、泣く泣くコンタクトレンズに切り替えた。そのころは使い捨てレンズは普及していなかったので、喧嘩っ早かった私でも危なくないように、使い捨てではないソフトレンズを購入してもらった。

使い捨てではない昔のソフトレンズは、毎日かなり手間をかけてケアをしなければならなかった。
手鏡サイズのプラスチックケースに薄いスポンジをセットして、専用ボトルに水と顆粒の薬品を入れて振って溶かして作った専用洗剤を染ませたそのスポンジでレンズをこすり洗いし、寝ている間に専用機器で煮沸消毒をする。毎晩のこの手入れがおそろしくわずらわしく、特にこすり洗いを半分寝ながらやっていたのを見かねた母が、私が中学校に上がって落ち着き、それほどバイオレンスな性質でもなくなったタイミングを見計らって、ハードレンズに買い替えてくれた。
水洗いしてもよいハードレンズは扱いやすかったが、白目にキュッと張りついてしまったり、逆に目から落ちてしまったりすることや、目にゴミが入ったときにはソフトレンズと比較にならない激痛に見舞われることなどにうんざりし、大学に入学してしばらくしたころに、当時ようやく普及し始めていた使い捨てレンズを使いたいとレンズ屋さんで相談したところ、「あなたの度数の使い捨てはないんよ」と言われてあえなく断念した。ああいうのはごくごく軽度の近視の人だけが使えるものなのだろうと簡単に納得した。自分の近視の度合いがそれほどきついという自覚がなかった。ずっとその目で生きてきたからだ。

大学卒業を控え、矯正視力が絶対に1.0必要という試験を受けることになり、レンズ屋さんで相談したところ、「その日だけ度数がしっかり出る使い捨てレンズを使ってみよう」と提案された。私の気づかぬうちに私の度数の使い捨てレンズが発売されていた。あんねや、と思いながら処方してもらった使い捨てレンズはやはり手軽で、ずっとこれを使いたい、と相談して、ようやく使い捨てレンズを手に入れた。私の度数の使い捨てレンズを作っているメーカーは現在でもほぼなく、唯一条件に合ったレンズも微妙にベースカーブが合わず、とはいえほかに選択肢もない。その微妙に合わないレンズすらレンズ屋に常時在庫はないのでメーカー取り寄せだった。それでも使い捨てレンズ自体がそんなものなのだろうと思っていた。試験には落ちた。

どうも自分の視力は度を越して悪いらしい、と気づいたのは大人になってからである。
レーシックが普及し始めたころに「レーシックせえへんの?」と聞かれることが増えた。もともと受けるつもりもなかったが、ちょっと調べてみたところ、私の度数は日本眼科学会が定めるレーシックのガイドラインで、慎重適応を通り越して「施術してはいけない」とされている度数、つまり不適応だった。だから「レーシックせえへんの?」と聞く人には次のように説明する。
視力1.0の人がここ(肩を指す)とするやろ。
視力0.1の人がここ(膝上付近を指す)とするやろ。
レーシックできる人が大体このへん(胸元から膝を指す)。
私の視力、ここ(足首を指す)らしいよ。

しばらくは使い捨てレンズを使っていたが、ドライアイになったので結局やめて眼鏡に戻した。20年の紆余曲折の間にプラスチックレンズも進化して相当薄くなっており、しかしそれでも普通程度に目が悪い人のレンズに比べればかなり厚いので、適したフレームは限られていて、まともに使えるフレームは一般的な眼鏡屋の店頭展示物のうちのひとつかふたつしかない。親切で根気強い眼鏡屋さんで、それでも使えそうなフレームがほとんどなく、思い余ってキッズサイズの眼鏡を試着し、特に不都合がなさそうだったので「これで作れませんかね」と相談したところ、「掛かっているのでいけるといえばいけるんですけど、キッズサイズはテンプルが短くて浅いので、落ちやすいかもしれないです」と言われて断念した。
30分で作れます、というようなファスト眼鏡屋では作れない。視力について説明しても、レンズの最も厚い部分が2cmを超えるような眼鏡を平気でプレゼンしてくるからだ。瓶底眼鏡とはよくいうが、瓶底だって2cmはない。一度、わざわざ店頭で客引きをしたうえであまりに非現実的な仕上がりになることが明らかな眼鏡をニコニコとおすすめしてきた店員さんに、プロなら計算してください、このレンズとフレームでレンズの端がどうなるか、実用に耐えると本当に思いますか、と問うたところ当然ながらおびえられたので、それ以来、不幸な出会いを起こさないためにファスト眼鏡屋の前も通らないようにしている。念のため聞いたところ、そういう実用に耐えない眼鏡でも、実際に作った場合、納品には30分どころか2週間かかるとのことだった。

ある程度までは矯正で視力が出るので、目が悪くて困ることはあまりない。目がいい人よりすこしお金がかかることと、いずれ失明するかもしれないなと思うことぐらいだ。温泉やサウナが好きな人だと困るかもしれない。慣れない風呂は危険だし、露天風呂のよさは裸眼では味わいづらい。興味がなくてよかった、とも思うし、目が悪いから興味を持たなかったのかもしれない。後先はわからない。

目が悪くてよかったなと思うことは結構ある。
裸眼の状態でいるのは風呂に入るときか寝るときだけ、という生活をずっと続けていると、眼鏡をはずすだけでスイッチがオフになる。寝つきが異様にいいし、ちょっと休もう、というときに眼鏡をはずすだけで簡単にリラックスできる。目から入ってくる情報量を、最低限だけ残したうえで意図的に遮断することができる。これはずっと目がよい人にはわからない感覚だと思う。
夜の電車で、たまに眼鏡をはずしてみることがある。車窓を流れていくオレンジ色の光がすべてマリーゴールドに、緑色の光ならボルボックスになる。それでも眼鏡をかけるとすべてクリアに見える。見えすぎるなあ、と思うこともある。矯正さえ可能なら、なんなら人間の目はデフォルトが「あんまり見えない」でもいいんじゃないの、とも思うけど、まあ、人によってはつらいのかもしれない。あるいは私は先天的に悪いからそれほど気にしていないのであって、もともとよかった視力が事故や病気で失われることもあるし、最初は備わっていたものが失われたのだとしたらストレスだったかもしれない。
目が悪い人の見え方を、目がいい人は知らないんだな。私はマリーゴールドの形の光を、目がいい人にも見せてあげたいなとちょっと思う。




(なんだかんだ眼鏡モチーフが好き)