場外

para la calle

はじめて来ました

大阪駅前ビルのなかに有名な讃岐うどん店があった。
こう書いただけで、知っている人にはどこの店のことかわかるような有名店だった。
私は大阪生まれだけども大阪の甘くて軟いうどんよりは讃岐うどんのほうが好きで、インターネットでこの有名店を知って、あるとき梅田でぶらぶらしていた日に行ってみた。
平日のお昼すぎ、店の表に5、6人が並んで待っている。最後尾に連なってしばらく待つと、中から出てきた店員さんが、前から順に注文を聞いていく。
メニューは店の表にたくさん貼り出してあった。おすすめは生醤油うどんだとネット記事に書いてあったし、まあ生醤油うどんでええやろう、と思っていたら、私のひと組前の男女二人連れが注文を聞かれ、若い男性のほうがほがらかに、
「なまじょうゆうどんふたつ」
とオーダーした。
なま…なま、なまじょうゆ…、なまじょうゆもあるな、確かに…そうやな、これはなまじょうゆと読める、間違いない、すなおに読めばなまじょうゆや。えっ、なまじょうゆなんですか?店員さんは復唱することなく「はい、ふたつね」と注文をとり、そのまま私に流れてきた。おい復唱してくれよ注文を。なまじょうゆなんですか?
不意に中学生のころの聖書の時間を思い出した。ミッションスクールだったので、科目として「聖書」の時間があった。「国語」「数学」「聖書」といった具合にである。ある日のその聖書の時間に、とあるドキュメントを輪読することになった。メインの登場人物の名前が「健男くん」だった。それを開始早々最初の1文から、窓際の最前列だった馬場ちゃんが、なぜか「けんおくん」と読み上げた。出席簿がアルファベット順だったので出席番号1番がABCのBの馬場ちゃんだった。馬場ちゃんは生まれてはじめて出席番号1番になったと言っていた。それはそうとして、けんおではないやろ。しかし2番の千木良さんは、馬場ちゃんのあとを受けてやはり「けんおくん」と読み上げた。その瞬間にクラス全員の肚が決まったのだろう。輪読はそのまま進み、「健男」が出てくる文章が当たった生徒はみな「けんお」と読み上げた。句点を1、2と数えながら自分の担当部分に健男が出てこないことを祈った。健男、出てくる。どうする?「けんお」って読む?狼狽のあまり内容がちっとも頭に入ってこない。
私の前の席のペキに順番が回った。ペキは北京帰りの帰国子女だというだけでペキというあだ名で呼ばれていた。ペキは何とクラスの空気を意に介さず「たけおくん」と読み上げた。
「ご注文は?」
「きじょうゆうどんで」
できるだけ前の二人連れに聞こえないように声を抑えて注文した。店員さんはやはり復唱しなかった。
中学生の私はペキにつづいて「たけおくん」と読み上げた。私の後ろからはまた「けんおくん」に戻り、そのまま最後の1文まで順繰りに読み上げられたが、結局「たけおくん」と読んだのはペキと私の二人だけだった。聖書の授業というのは例え話なり実話なりをモチーフにして聖書の教えを自分の頭で考えて理解するとかそういうことを主眼にしているから、先生もドキュメントの内容については何も触れなかったのだった。
授業が終わってペキが振り返った。そして小声で「『けんお』はないよな」と言った。
私も「ないよな」と言った。ペキは信用できるやつだな、とも思ったし、クラスメートのやさしさも理解できた。
ところで店内に入るとすぐに、私の目の前に生醤油うどんが運ばれてきた。店員さんは「お待ちで~す」と言って持ってきたので、結局正解はわからなかった。ただ、その店は観光客も多く、はじめて来た人には店主が「兄ちゃん(姉ちゃん)、はじめてか?」と尋ねて醤油のかけ方などを含めたうどんの食べ方を懇切にレクチャーしてくれることでも有名であり、私の前に通された男女二人連れはレクチャーを受けていた。笑顔で「名古屋から来たんです」と言っていた。そして、私は何も聞かれなかった。
せわしない店内で、わざわざ「はじめて来ました」とは何となく言い出せず、よくわからないまま、多分きじょうゆだと思うけれどももしかしたらなまじょうゆかもしれないうどんを食べた。別に健男がけんおでも、生醤油うどんがなまじょうゆうどんでも誰も損はしないじゃないか。流れを読んだほうがいい場合もある、と思った。